先日、ひょんなことからジビエを通して「食」について、改めて考えるきっかけをいただきました。
最近よく見かけるようになったジビエ料理。
「ジビエ」とはフランス語で、狩猟で獲った野生動物の肉のことで、鶏・豚・牛などのように家畜として育てられた動物のものとは別の動物の肉のことを指します。
野生動物の獣害
獣害とは主に野生の鳥や動物による害のことを言います。
そして、その獣害も、農作物の被害から、人的な被害、生態系のバランスに関わる問題など様々です。私の友人もカモシカに車のガラスを割られたことがあり、これも立派な獣害。
特にこの中でもここ数年減少傾向にあるものの、農作物の被害が重大で、それでも年間約155億円、面積にして約33000ヘクタール、量にすると約46万2000トンに及ぶ被害が出ているそうです(令和3年のデータ)。
これは人間の開発行為で山林に餌がなくなってしまったのが原因ではありません。
実は、野生動物の個体数や増えているようで、分布も拡大しているそうです。
農作物の被害の割合はシカが41.2%、イノシシが37.1%となっており、被害額の約6割がこの2種類の動物で占められています。
例えば、イノシシは1日のうちの3分の2を休んで、3分の1を餌を探すために活動しています。
山林の中でようやく見つけるのは本当に小さな一口。
そんな彼らにとって見つけた人間の畑はどのように映るでしょうか?
そう。実は、そもそも作物を作るということが必然的に野生動物を引き寄せているということになります。
当然、その歴史は人間が農作物の栽培をするところから。
飽食の時代と言われる現代とは違い、大昔は農作物の獣害はまさに生死に関わる問題で、被害を防ぐために寝ずに畑の見張り番をしたり、シシ垣やシシ土手などを築いて防いだりと、様々な対策を考えてきたようでした。
罠を仕掛けて捕獲したイノシシは今度は重要なタンパク源として重宝された時代がありました。
人間の作った農地は江戸時代から明治に移り、大正、昭和時代に一気に増えます。
この時代は、まさに野生動物が山奥へと追いやられた時代のようです。
ところが農地面積も1960年ピークに減少。
1970年代には減反政策もスタートして、ここから耕作放棄地(以前は耕地だったが、過去1年以上作物の栽培が行われす、またこの数年の間に再度耕地として活用する考えのない土地)が増え、人々は農業から別の産業へと移っていき、もともと人が入り込んで山奥に追いやられていた動物たちが、人間の姿が見えなくなってきた耕作放棄地を住処にするようになって、人間と野生動物の境界線が近くなったという見方があります。
耕作放棄地は近くに耕地として利用されている畑も存在しやすいので、そこでまた農作物の被害が出ますが、この被害を出す動物は害獣として駆除され、大半が焼却処分されていきます。
そして、この耕作放棄地は今では毎年増えていきている状況です。
フードロスの矛盾
産業動物や経済動物という言葉はご存知でしょうか?
これは家畜の畜主の経済行為のために育てられる動物のことです。
広くはペットや観賞用の鯉なども含めた意味で使われ、狭義では、生産物や労働力が人間にとって有用なために飼育されている動物(牛・豚・鳥・馬・山羊・羊・ミツバチなど)のことを言います。
以前、酪農家の友人から、乳牛として生まれてきたメスの子牛は一体どれぐらい母牛と一緒にいられるかを質問されたことがありました。
その答えはなんと30分と非常に衝撃的で、その後、そのメスの子牛は人間が飲む牛乳や、人間が食べる乳製品を作るためだけに、一生お乳を出し続ける動物として飼育されていくと聞きました。
ここで生まれてきた雄牛はお乳を出さないため、今後の餌代をなくすために処分される運命であることも聞きました。
かたや、先述の野生動物は、害獣として駆除されると、その大半が焼却処分されているという現状があります。
でも、スーパーなどで陳列されている肉や魚は余ると廃棄処分されて…。
食べるために必要だから作って、今度は作りすぎたから廃棄する。
食べるために農地を作って、農作物の被害を出すから駆除して焼却処理する。
フードロスを防ぐというのはもちろんとっても大切なこと。
でも、なんだかそこには「命」というものを見直さないといけない根本的な問題があるように思います。
いただきますとご馳走様
食べるということは、生きること。
生きるということは、食べること。
食べるために生きるのではなく、生きるために食べる。
そして、食べるという行為は、命の移し替えです。
それが植物であっても、動物であっても命をいただいています。
みんなの「食べる」のために大変な思いをしながら命を育ててくれている方々がいます。
私たちには両親がいて、その両親にもさらに両親がいてこれを27代さかのぼると、その数は1億3000万人を超えます。
この中のご先祖様が誰か1人でも子供が生まれる前に亡くなっていたら、もしかしたら、私たちは今こうして生まれていなかったのかもしれない。
これは、私たちが食べ物としていただいている「命」にも同じことが言えるのではないでしょうか。
何を食するかには実際に身体に合う合わないもあります。
そこには思想が入ることもあるでしょう。
でも、何であってもいただいているのは命であることを忘れないで「いただきます」と「ごちそうさまでした」を大切にし、感謝の気持ちを忘れずにしたいですね。